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縄文時代(じょうもんじだい)

いつから人が住んでいたの?

発掘された土器の写真

上坂式土器(うえさかしきどき)

日本列島には約3万年前の旧石器時代から人が住み始めました。
はるか遠く、アフリカで誕生(たんじょう)した私たちの祖先(そせん)が、何世代もかかって世界の各地に広がっていったのです。北海道にも旧石器時代の遺跡(いせき)がみつかっていて、洞爺湖町や今金町(いまかねちょう)などでも旧石器時代人が作った石器がみつかっています。
伊達市では、まだ旧石器時代の遺跡はみつかっていません。それは1663年に噴火した有珠山の火山灰(かざんばい)が厚くたまっているために、古い時代のものがみつかりにくいのです。でも、これからみつかる可能性(かのうせい)もあるのです。
いまのところ、伊達市に人がいた証拠(しょうこ)は、北黄金貝塚や有珠駅の裏(うら)にある有珠6遺跡からみつかった約7000年前の土器です。そのころの家やお墓の跡などは発見されていないので、当時の人々のくらしは明らかではありませんが、でも縄文時代の初めから伊達の地に人が住んでいたのです。

遺跡(いせき)って?

遺跡とは、過去の人々が作った家の跡や貝塚、お墓、道具などが残されている土地のことです。遺跡をほると、その当時の人がどんな暮らしをしていたのか、どんな考え方で生きていたのかを知ることができます。
遺跡は縄文時代のような古い時代だけではありません。約300年前の近世のアイヌの人の遺跡や明治時代に本州からやってきた人々が残した生活の跡も遺跡です。もしかすると、私たちが暮らしている場所も、将来(しょうらい)は考古学者によって発掘(はっくつ)されるかもしれません。
遺跡をほると過去に生きた私たちの祖先(そせん)のことを知ることができます。このことは、私たち現代人がどうしてこの場所で生きているのか、これからどのように生きていけばよいのかを考えるための良い教科書になります。

伊達市の遺跡

水場遺構の写真

伊達市には北の有珠地区(うすちく)から南の黄金地区(こがねちく)、そして大滝区(おおたきく)にも遺跡があり、今のところ90ヵ所みつかっています。
伊達市は噴火湾(ふんかわん)という海に面していて、そこに注ぎ込む(そそぎこむ)川がたくさんあります。人間にとって食べ物と飲み水は必要(ひつよう)ですから、人は海と川の近くに住みます。そのため、伊達市内の遺跡の多くは海と川の近くにあります。
たとえば、国指定(くにしてい)史跡(しせき)の北黄金貝塚は、海と川の近くである上に、遺跡の中に水がわき出る場所もあります。
また、川のない有珠地区は地面からは見えませんが、地下水が流れていて、海岸近くから真水がわき出ています。わき水の近くにはかならず遺跡があるのです。
市内の代表的な遺跡は、縄文時代の北黄金貝塚と若生(わっかおい)貝塚(かいづか)、約2000年前の有珠モシリ遺跡、約300年前の館山(たてやま)チャシ、明治5年ころに作られた旧伊達邸跡(伊達市開拓記念館のある庭園)で、これら以外にも街の中に遺跡はたくさんあります。
また、大滝区には愛知石組遺跡と円山洞窟(どうくつ)遺跡などの遺跡がありますが、発掘調査(はっくつちょうさ)がされていないので、正しい時期や内容はわかっていません。しかし、大滝区にも古くから人がくらしていたことは間違いありません。

北海道と本州(ほんしゅう)のちがい

北海道は、本州(ほんしゅう)や四国(しこく)、九州(きゅうしゅう)、沖縄(おきなわ)とはちがった歴史(れきし)と文化があります。
学校で使っている歴史の教科書はおもに本州の歴史を中心に書かれていますので、北海道の独自(どくじ)の時代のよび方はでてきません。
たとえば、北海道では弥生(やよい)時代や古墳(こふん)時代という時代の名前は使わず、ちがう呼び名です。
北海道では旧石器時代と次の縄文時代までは本州と同じ呼び方ですが、その後からがかわり、続縄文期(本州の弥生時代と古墳時代)、擦文期(奈良・平安時代)、中世アイヌ文化期(鎌倉時代・室町時代)、近世アイヌ文化期(江戸時代)と呼ばれます。そして明治時代からはまた同じ呼び方になります。
なぜ、北海道の時代のよび方がちがうのかというと、本州とは「文化」がちがうからです。
たとえば、弥生時代には水田でお米を作る文化が九州から四国、本州へと広がりました(弥生文化)が、北海道では農業を行わずに、シカを狩ったり(かったり)、魚つりや木の実を集める生活が続きました。この縄文時代と同じような暮らし方が続いたことを「続縄文文化」と呼んでいます。
同じように、その後の時代も本州とはちがったくらし方だったので、よび方がちがっています。そして、中世や近世のアイヌ文化につながるのです。
 
ちなみに、なぜ北海道の続縄文人たちは農業をしなかったのかというと、一つは当時の稲は北の寒いところで育つ種類(しゅるい)ではなかったことが考えられます。もう一つは、縄文時代から北海道と本州の縄文人では食生活がちがっていて、海でとれる貝や魚、森でとれる動物や山菜(さんさい)を食べていた北海道の人たちは、ドングリなどをたくさん食べていた本州の人たちほどお米に魅力(みりょく)を感じなかったということが考えられます。
つまり、弥生人はドングリやトチの実のかわりにお米を作ったけれども、続縄文人はそもそもドングリなどを主食にはしていなかったので、わざわざ稲をつくる必要はなかったのです。
けっして、「おくれた文化」、「おくれた人々」ではないのです。

お問い合わせ先

教育委員会生涯学習課文化財(ぶんかざい)係
電話:0142-23-3331(内線513・514)

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