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開拓(かいたく)のころ

家族で移住(いじゅう)しよう

移住するにあたり決めたルールがいくつかありました。
その中の一つに「ひとりでの移住を認めない」ことがありました。
これは、家族をつれて移住することで、夫婦や親子などがいればつらくても、おたがいに助け合いながらがんばれるだろうという考えです。
亘理伊達家が移住して行った開拓が、北海道開拓史上でも稀にみる成功をおさめた大きな原因のひとつがここにあると高く評価されています。

移住開始

有珠に到着したころの絵画画像

有珠に到着した様子

明治3年3月27日、邦成をふくむ第1回移住団が出発しました。
移動のためのお金は、邦成自身、自分の家具や鎧、刀剣などを売って用意しました。
また、移住団の人たちもできるだけのお金とお米を用意して、それぞれ移住にむけての準備をしました。
移住団をのせた蒸気船は、函館を経由し、4月6日室蘭につきました。そこから有珠まで歩いて移動しました。男の人たちは1週間ほどで、簡単な小屋を56棟つくりました。

開拓がスタート

明治期の住宅の写真

明治期の開拓農家の様子

明治3年4月17日、邦成自らの手で最初の鍬が下され、開拓がはじまりました。
その後の移住は、明治14年4月まで合計9回行われ、約2,700人が移り住みました。
このとき、仙台藩(せんだいはん)のひとつである柴田家も一緒に移住していました。
柴田家も戊辰(ぼしん)戦争(せんそう)で家が大変なことになってしまい、亘理伊達家とともに有珠郡へ移住することにしました。柴田家の移住は明治3年3月から4回行われ、今の舟岡地区に入植しました。この「舟岡」の地名は、ふるさと本州の「船岡」にちなんだものです。
今は、「船岡町」は、槻木町と合併され、柴田町となっています。

伊達の開拓魂

明治4年、政府は突然、邦成が支配していた有珠郡一帯の土地を取り上げてしまいます。
これは、これまで邦成の持ち物だった有珠郡の土地が、国のものになってしまったことを意味します。
せっかく家中とともに力を合わせて開拓してきたのに、突然土地を取り上げ、武士として開拓に励んでいた家臣は農民にされてしまいました。
この事件は全員が驚き、そしてせっかく順調に進んでいた開拓も滞ってしまいました。さらに凶作の日々が続きますが、邦成は次の移住団のために開拓を進めなければならないと強いリーダーシップを発揮し、家臣たちの進取の気質と不屈の開拓魂に再び火をつけることになりました。そして今日の伊達市の礎を築きはじめることになります。

お問い合わせ先

教育委員会生涯学習課文化財係
電話 0142-82-3299

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