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擦文(さつもん)文化と中・近世のアイヌ文化

擦文文化

有珠4遺跡で出土した擦文土器の写真
有珠4遺跡で出土した擦文土器

本州が飛鳥・奈良・平安時代(約1,400年から800年前)だったころの北海道には擦文(さつもん)文化という独自の文化がありました。
擦文とは、土器の表面に付けられた「木のへらで擦ったあと」のことをいいます。
擦文文化は、四角い竪穴住居に住み、雑穀栽培を行うなど、本州の暮らし方を取り入れつつも、住居の中では伝統的な囲炉裏を使い、水田は作らない、といった北海道の地域性が強く表れた文化でした。
特に、本州では食べ物の煮炊きに使われた土器には模様を付けなくなりますが、擦文土器には縄文時代と同じように豊かな装飾が施され、模様の持つ意味も人々に受け継がれていたことがわかります。
また、擦文文化期には北海道と本州地域の交易が活発化していて、擦文人たちは本州から鉄製品を手に入れ、本州に魚介類や動物の毛皮などを渡していたと考えられています。
伊達市では擦文文化期の住居跡が有珠海水浴場付近の有珠ポンマ遺跡で見つかっているほか、潮香園の付近の有珠4遺跡や有珠善光寺2遺跡では土器などの生活の痕跡が見つかっています。

中世のアイヌ文化

オヤコツ遺跡の方形配石墓の写真
オヤコツ遺跡の方形配石墓(規模:南北4.25メートル、東西3.93メートル)

アイヌ文化は、今から800年ほど前(本州は鎌倉時代)に成立したといわれています。
この文化は擦文文化の伝統的な暮らしを受け継ぎ、さらに本州やサハリン以北の地域の人々との交流で形作られたものだと考えられています。
中世(本州の鎌倉時代から安土桃山時代:約800年から450年前)のアイヌ文化の遺跡は上ノ国町や松前町などの道南地域や、平取町などの日高地方で多く発見されています。伊達市でも有珠海洋センター付近にあるオヤコツ遺跡で「方形配石墓」という他に例を見ない中世アイヌ文化の墓が見つかっています。
この方形配石墓は礫を四角く積んだ内部に複数の遺体を葬る合葬墓で、同じ規模のものが2つ並んで作られていました。中からは青磁の碗やガラス玉などの貴重な副葬品が多く見つかっています。
また、石で囲われた内部は火を受けたあとがあり、四角い仮小屋を建てて葬送儀礼のときに燃やしたと考えられています。
このことは縄文時代から作られる合葬墓の意味や、アイヌ民族の風習として伝えられる家送りの儀式である「チセウフイカ」あるいは「カソマンデ」の起源を考えるうえでとても重要なお墓です。

近世のアイヌ文化

刀の鞘に彫られたアイヌ文様の写真
近世(本州の江戸時代)には伊達市内にアイヌ民族の村(コタン)が多くあり、特に現在の有珠地区は大きな村(コタン)だったことが古文書に記されています。人々の生活は噴火湾でとれるクジラなどの海の幸と背後の山でとれるエゾシカや山菜などの山の幸に支えられていました。
また、有珠4遺跡やポンマ遺跡からは貝塚だけではなく、畝のある畑が見つかっているので、自らの手で根菜類や雑穀の栽培を行っていたことがわかりました。
さらに、近世には本州から来た和人との交易が制度化され「有珠会所」という交易のための施設が作られました。
蝦夷地と呼ばれた当時の北海道の産物は、オットセイの皮や昆布、干し魚などが代表例で、本州の米や酒、漆器、金属器と交換されました。
一方で有珠地区は、寛文3年(1663年)、明和6年(1769年)、文政5年(1822年)、嘉永6年(1853年)と有珠山の噴火に何度か襲われています。
噴火では火砕流による死傷者が出るだけではなく、火山灰が畑や海を覆ったことで、生活の方法にも大きな影響を与えました。また、寛永17年(1640年)の駒ヶ岳の噴火では、山が崩れて津波が発生し、対岸の有珠の村(コタン)にも大きな被害を与えたことが古文書や発掘調査でわかっています。
このような災害の影響を何度も受けた近世のアイヌの人々は、それでも再び元の場所に戻って生活をしています。その理由は、温暖な気候風土と海の幸が豊かな有珠湾の存在と、風景や歴史的な経緯も含めた感情から人々にとっては離れがたい土地だったことがあるのでしょう。

お問い合わせ先

教育委員会生涯学習課文化財係
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