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近代

伊達地区の開拓

開拓記念館所蔵の雛人形の写真
 
明治時代以降の急速な近代化に伴う北海道各地の開拓事業は、本州、四国から移住した多くの人々に支えられてきました。
伊達市も例外ではなく、現在の宮城県南部に位置する亘理町からの集団移住によって開拓されています。
この集団移住を指揮したのが亘理伊達家15代当主の伊達邦成です。亘理伊達家は戦国武将の伊達政宗と共に活躍した伊達成実が先祖です。
戊辰戦争が勃発すると、仙台藩主伊達慶邦は奥羽越列藩同盟の総督になりました。しかし戦いに敗れ、その報復として、仙台藩は大幅に領地を没収されました。これに伴い、亘理伊達家の家禄もほとんど失う事態に陥ってしまいました。
そのままでは生活していくことができなくなるので、伊達邦成は新天地を求めて、北海道移住の許可と開拓地の割りあてを明治政府へ願い出て、明治2年(1869年)8月に胆振国有珠郡(現在の伊達市)の開拓が許可されました。
しかし、明治政府から移住費用や開拓に必要な費用の支援は一切なく、伊達家は先祖伝来の宝物や装飾、装身具の類まで売り払って移住費用を捻出しなければなりませんでした。
移住は明治3年(1870年)から明治14年(1881年)までの間に9回行われ、総勢約2,700人が移住しました。
伊達邦成は、既にアイヌの人々の集落がある有珠地区周辺ではなく、あえて未開拓の原野から開拓を始めました。
その際アイヌの人々に対して、常に礼節を重んじること、騙したり彼らの馬を無断で使用したりしないこと、そして彼らの住宅に勝手に立ち入ってはいけないという規則をつくり、家臣らも忠実にそれを守りました。
そのため争いは一切なく、アイヌの人々も親切に天候や土地の状態、山菜などの食べ物を教えてくれたほか、常に開拓を手助けしてくれました。

大滝地区の開拓

大滝区は平成18年(2006年)に伊達市と合併しました。
大滝区は海岸から内陸に30キロメートルほどに位置し、周囲を山に囲まれ、寒冷な気候で積雪が多く、国の特別豪雪地帯に指定されています。まちの中央をほぼ南北に長流川が流れ、河口は噴火湾に面する伊達市にあります。
噴火湾周辺ではアイヌの人々が集落を形成し、豊富な魚介類を得て生活していましたが、大滝区では1軒の住居跡と狩猟目的で一時的に夜露をしのいだ洞窟以外は定住生活の痕跡は見つかっていません。
明治27年(1894年)に永井五郎兵衛が初めて入植したのが村の開基とされています。
本格的な開拓は、明治30年(1897年)に制定された北海道国有未開地処分法で詳細な地形図が作られ、分譲区画が整備されたことに始まります。これは、開拓移住者は希望する区画の土地を無料で借り受け、定められた期限内に開墾が完了するとその土地を無償でもらえる制度のことで、個人の開拓者だけでなく企業の大規模な開墾事業を呼び込むことになりました。
その結果、徐々に本州からの開拓移住者が増え、明治末期から大正初期には学校や商店が建ち始めました。

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