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アイヌ文化その2

アイヌの人たちに出迎えられた伊達邦成(だてくにしげ)たち

明治3年(1870年)3月29日に第1回目の移住団(いじゅうだん)として、伊達邦成とその家来や、大工、人夫など250人を乗せた政府の汽船(きせん)「長鯨丸(ちょうげいまる)」が、松島湾を出港し室蘭をめざしました。
船が無事航海(こうかい)を続けて室蘭に入港したのは、4月6日のことです。まだ雪におおわれた北海道で邦成一行を出迎えたのは、熊の毛皮の胴着(どうぎ)に山刀をさしたアイヌの人たちでした。
邦成たちはその姿をみてとても驚きましたが、アイヌの人たちは荷物を運んでくれるなどとても親切でした。一行が有珠でとまったときには有珠に住むアイヌの人たちは、この当時貴重(きちょう)だった白米のご飯と有珠湾でとれたアサリのみそ汁で歓迎(かんげい)したといわれています。
このあと、邦成は支配所を開きましたが、このとき家来たちには「常に信義、礼儀、はじを知ることをもって生活し、アイヌの人たちと平和なつき合いをすること」を命じました。そして、この精神は伊達のまちづくりをするにあたり、今も生き続けています。

ジョン・バチラー博士とバチラー八重子

バチラー博士の写真

バチラー博士の肖像(しょうぞう)

アイヌ民族史のなかで、忘れてはならない人にジョン・バチラー博士がいます。
「アイヌの父」と呼ばれた博士は、1854年にイギリスで生まれてロンドン神学校を卒業後、来日しました。そして、北海道に来て、聖書をアイヌ語に訳すなどたくさんの業績(ぎょうせき)を残しました。
博士が伝道師(でんどうし)として日本へ来たのは、明治10年(1877年)3月で、23歳のときでした。そして明治11年(1878年)に、アイヌ民族の研究とキリスト教の布教(ふきょう)をかねて初めて有珠に来ました。
最初に博士を見て驚いた(おどろいた)アイヌの人たちも、やさしくみんなにとけこもうとするバチラー博士の姿を見て、しだいに親しみを感じるようになりました。
次の年、博士は有珠をはなれていますが、その後も何回か有珠に来てアイヌの人たちと交流を深めています。
やがて、この熱心な博士をしたって、キリスト教の信者もふえました。
その中に、博士の遺志(いし)をつぎ、聖公会伝道婦(せいこうかいでんどうふ)となった向井八重子(後のバチラー八重子)がいます。
八重子は、明治17年(1884年)に有珠のアイヌコタンで、向井富蔵の次女として生まれました。11歳で父を亡くした八重子は、子どものいなかったバチラー夫妻の養女(ようじょ)になり、博士夫婦とイギリスに渡ります。
イギリスでいろいろな経験をしたのち、日本に帰国しました。その後はふるさとの有珠でキリスト教の布教に努めました。
昭和12年(1937年)、多くの信者が協力して有珠の小高い丘に「バチラー夫妻記念堂」が建てられ、八重子の手で有珠のまちに愛の鐘(かね)が鳴らされるようになりました。
貧しくてもキリスト教徒として布教し、仲間のためにその生涯(しょうがい)を捧げた(ささげた)バチラー八重子は、昭和37年(1962年)4月に78歳でこの世を去りました。
 

用語解説

汽船

蒸気(じょうき)を原動力にして動く船のこと。「汽」という漢字は蒸気を意味しています。

胴着

腰(こし)までの長さの防寒用(ぼうかんよう)の服

伝道師

キリスト教で正教師の資格(しかく)はないけど、キリスト教の教えを伝えて広める人

布教

ある宗教を広めること

聖公会伝道婦

イギリス国教会の系統に属する世界各地にある教会の教えを伝えて広める女性のこと

お問い合わせ先

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