町名のゆらい
有珠郡屋敷割乃図(うすぐんやしきわりのず)(明治5年)
明治3年の開拓(かいたく)では、見渡す限りなにもない土地だったので、町名はつけませんでした。
その後、道が作られ、まちの形になってきたころに臨時の町名がつけられました。
それが、支配所(今の旧伊達邸庭園入口付近)を中心にして「北巷路」「西巷路」「本町」「南巷路」「裏町」「表町」とつけられた町名です。この町名は、その後で別の地名に変わりました。
伊達市は、北海道ではめずらしく、和人が使う地名(和歌による地名)とアイヌの人々が使っていた地名がそれぞれ残っている特徴(とくちょう)があります。
移住の時に、アイヌの人々と仲良くしながら開拓を進めていった名残(なごり)といえるでしょう。
今でもこのときの町名の半数が残っているほか、道路や公園の名前として引きつがれているものもあります。
和歌から名付けられた地名
移住者(いじゅうしゃ)の中に「佐藤脩亮」という人物がいました。佐藤は亘理にあった郷学校「日就館」の教授として国文学、和歌について子弟の教育に力を入れていました。
明治4年に佐藤が北海道に移住してきます。その後、佐藤が詠んだ(よんだ)20首の和歌「街(まち)に名づくることの葉」から町名が付けられました。
和歌から選ばれた言葉が、地名に付けられているのは道内のほかの開拓地(かいたくち)では見られないとても優雅(ゆうが)なことです。
今でもこのときの町名の半数が残っているほか、市道名(道路の名前)や公園の名前として引きつがれているものもあります。
今も町名として残っているもの
網代(あじろ)町
和歌
「網代守る ひ魚のよるや待ちふけぬ 月影寒き 有珠の川波」歌の大まかな意味や当時の風景など
網代は魚を取るための道具。この道具に魚がかかるのを見守りつつ秋の月影(つきかげ)が川波を照らす(てらす)様子を詠んだ歌乾小路(いぬいこうじ)
和歌
「天にたゝい 父と唱へて物ものの ねさしとなるも 乾よりして」歌の大まかな意味や当時の風景など
竹原町・幌美内町・末永町の中心にあたる場所朝廷(当時の政府)のためにここに住んだ。それが乾の方角(西北)だという歌
梅本(うめもと)町
和歌
「消残る 雪のうちより咲出て ちるをいそがぬ 梅の本つ枝」歌の大まかな意味や当時の風景など
今の旧伊達邸庭園あたりの場所長い冬にたえて春に咲くこの土地の梅は美しく、花が咲いている時間も長い。
苔(こけ)がむしてたくましい梅の木のように、したたかに生きよう。
必ず満開(まんかい)の花がさくのだからという歌
清住(きよずみ)町
和歌
「みかけたゝ 心の茎のくもりなく けに清住の 名にしあふまで」歌の大まかな意味や当時の風景など
開拓当時、みんなで心をひとつにして乱れなく(清く)、開拓していこう(住んで)という歌末永(すえなが)町
和歌
「祝ふそよ 千と世万代君が代の 末永かれと 仰ふく明けくれ」歌の大まかな意味や当時の風景など
いつまでも続いてほしい邦成公の治世開拓の先頭に立つ邦成公を慕う(したう)町の由来
竹原(たけはら)町
和歌
「行末は 世々をこめたる竹はらに 実をはむ鳥も 住まむとそ思ふ」歌の大まかな意味や当時の風景など
将来(しょうらい)は、りっぱな畑になると信じているけれど、今は竹野原で自分達も苦しいが、野鳥もエサがなくてかわいそうにと同情(どうじょう)をこめた歌萩原(はぎわら)町
和歌
「宮城野の 秋のにしきを今こゝに うつしてそ見る 花の萩原」歌の大まかな意味や当時の風景など
故郷(こきょう)の宮城(みやぎ)にもあった萩が同じようにこちらでも咲いて(さいて)いる。松ヶ枝(まつがえ)町
和歌
「年さむき 霜の後にも色かへす みとりも深く 栄ふ松ヶ枝」歌の大まかな意味や当時の風景など
松の葉のように寒くても、霜(しも)がふっても、春には青々した様子に戻る(もどる)。今は貧しくても(まずしくても)やがては喜びのときがくると詠んだ歌
弄月(ろうげつ)町
和歌
「出るより 入まで雲にあくかれて 月もてあそふ 秋や幾秋」歌の大まかな意味や当時の風景など
雲の間に見えかくれする秋の名月が酒杯(さかずき)にうつる様子を詠んだ歌市道名や公園名で残っているもの
青柳(あおやぎ)町
和歌
「今よりは むかしの春に繰り返し みどり色そう 青柳の糸」今の大体の場所と当時の風景など
松ヶ枝町付近で清住・弄月・梅本の中心になる所旭ヶ岡(あさひがおか)
和歌
「久かたの 光あまねくさし登る 旭ヶ丘の 明灰のそら」今の大体の場所と当時の風景など
舟岡町のにれの木団地当たりの場所ながめがよく、開拓当時このあたりから東側は海に向かってなだらかな丘でした。
ここに立つと、開拓した土地が一望(いちぼう)できて、晴れた日には駒ヶ岳(こまがたけ)をみることができました。
菖蒲小路(あやめこうじ)※
和歌
「君と臣と 深きねさしのあやめ竹 けふより千世の ためしとそ曳く」今の大体の場所と当時の風景など
梅本町と竹原町の境目(さかいめ)付近開拓当時、初夏に咲くアヤメがたくさんさいていた様子を詠った歌
※公園名で残っています。これ以外は、道路の名前(市道名)で残っています
泉小路(いずみこうじ)
和歌
「せき入て むすぶも涼しをのつから 流れの末も 清き泉は」今の大体の場所と当時の風景など
清住町の一角で、清水町や泉町ともいっていた。のみ水の確保(かくほ)は当時苦労(くろう)したことの一つだったので、夏に涼しい(すずしい)水をのめる湧水(わきみず)をたたえた。
岩ヶ根(いわがね)町
和歌
「動きなき 岩根に深く苔むして なつとも尽きぬ 君か行末」今の大体の場所と当時の風景など
中稀府町のあたりで愛宕神社(あたごじんじゃ)付近藩主邦成公の行く末を案じた歌
桔梗小路(ききょうこうじ)
和歌
「秋の野に 千種はあれど咲出ずる なかに色こき きちこうの花」今の大体の場所と当時の風景など
北稀府の一部秋の草花の中でも大きな紫(むらさき)の花を咲かせる桔梗は開拓者の象徴(しょうちょう)でもあった。
巽小路(たつみこうじ)
和歌
「世を宇治と 人のいひしは昔にて 巽の住居 何うけるへき」今の大体の場所と当時の風景など
東小学校から舟岡町へ行く道路世の中はいやな所、住みにくい場所といっていたのは、むかしのことで、ここ巽小路にすんだら、世のうさはわすれることができるだろう。
開拓者たちよ、どうかがんばってこの土地に住みやすい里をつくりあげてほしいと期待を込めた歌
西小路(にしこうじ)
和歌
「夕日影 高根の雪をそめ色の あかねをさらす 西の山の端」今の大体の場所と当時の風景など
伊達高校の昔の正門から海に抜ける(ぬける)あたり有珠の山麓(さんろく)の雪が夕日に映える(はえる)様子を詠んだ歌
浜町
和歌
「世を送る そのいとなみに綱引すと うすの浜辺の 海士のよび声」今の大体の場所と当時の風景など
網代町から海側の地区開拓当時、稲作はなくて海の幸がとれることが喜びだった。
その網をおこす声が響く(ひびく)様子を詠んだ歌
南小路(みなみこうじ)
和歌
「めぐる日の しはしとゝまる中空は 左も右も 南とそ知れ」今の大体の場所と当時の風景など
元町大雄寺(だいおうじ)付近故郷(こきょう)の亘理の方角もわからない。開拓の苦労を思うが、言葉にだしてはいけない望郷(ぼうきょう)の念がわいてくるという思いを詠んだ歌
桜小路(さくらこうじ)
和歌
「君すまは うす山桜今としより なおひとしほの 色香こそ添う」今の大体の場所と当時の風景など
松ヶ枝町から太陽の園への場所今年こそ有珠山の山桜をながめて楽しめる。
宮城県由来の地名
伊達市は、東北地方の亘理町(わたりちょう)や柴田町から移住(いじゅう)してきた人たちによって開拓(かいたく)されたまちです。
また、和歌でも故郷を懐かしんで(なつかしんで)詠われています。
また、和歌でも故郷を懐かしんで詠われています。
また、和歌でも故郷を懐かしんで詠われています。
伊達リハビリセンター(松ヶ枝町)そばに「桜小路線」という市道名で、名前が残っています。
また、和歌でも故郷を懐かしんで詠われています。
亘理からの移住者は、二度と故郷に帰らない覚悟で北海道に移住しました。そのため、故郷と同じ名前を新しいまちにも付けて、故郷と同じくらい立派なまちを作ろうと開拓をがんばったことでしょう。
伊達市役所の付近の町名として残っています。
今も町名として残っているもの
鹿島町
大体の場所など
今も、宮城県亘理町に同じ町名があります。伊達市役所の付近の町名として残っています。
舟岡町
大体の場所など
伊達中学校やにれの木団地、つつじ保育所などがある場所。道路の名前として残っているもの
西小路
大体の場所など
伊達高校旧正門前から海にまっすぐさがる道路に「西小路線」という市道名で、名前が残っています。また、和歌でも故郷を懐かしんで(なつかしんで)詠われています。
濱丁
大体の場所など
気門別川沿いの道路に「浜町線」という市道名で、名前が残っています。また、和歌でも故郷を懐かしんで詠われています。
南小路
大体の場所など
聖ケ丘病院近くの国道37号からにれの木団地方面に行く道路に「南小路線」という市道名で、名前が残っています。また、和歌でも故郷を懐かしんで詠われています。
桜小路
大体の場所など
今も、宮城県亘理町に同じ町名があります。伊達リハビリセンター(松ヶ枝町)そばに「桜小路線」という市道名で、名前が残っています。
また、和歌でも故郷を懐かしんで詠われています。
残念ながら残っていないもの
片平丁
大体の場所など
伊達邦成が、移住した開拓民へ出した「覚(おぼえ)」の中にこの町名があったことが残っています。今の伊達中学校から東小学校のあたりです。
アイヌ語
明治時代の開拓が始まる前、この土地には古くからアイヌの人々が住んでいました。そのため、川の名前や場所を示すよび名にはアイヌ語が使われていました。
開拓で入植してきても、このアイヌ語の地名はそのまま使われました。今でもアイヌ語が語源の地名がいくつか残っています。
有珠(うす)町
由来になったアイヌ語とその意味など
ウス・イオロ・コタン、「湾(わん)の・内の・村」うすは最初「臼」という表記をしていましたが、後に今の「有珠」になりました。
長流(おさる)町(今の長和(ながわ)町)
由来になったアイヌ語とその意味など
オ・サル・ウン・ベツ、「川口に・葦原(あしはら)の・ある・川」昭和34年まで使っていましたが、日高の沙流(さる)やお猿と間違えやすいという理由で住民からの要望で「長和町」に変わりました。
黄金(こがね)町
由来になったアイヌ語とその意味など
オ・コンプ・ウシ・ペ、「昆布(こんぶ)をとるところの」当時は「黄金蘂」(オコンシベまたはオコンボシ)と表していました。
稀府(まれふ)町
由来になったアイヌ語とその意味など
はっきりしていません。次のような説があります。- エマウリ・オマレ・プ、「野いちごの実の・ある・ところ」の意味という説
- アイヌ人が魚を突いた(ついた)道具のこと、またはそれに似た川の牛舎川(ぎゅうしゃがわ)があるからという説
若生(わっかおい)町
由来になったアイヌ語とその意味など
ワッカ・オ・イ、「飲水・多い・所」
教育委員会生涯学習課文化財係
電話 0142-82-3299