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ふるさと発見 その2「洛中(らくちゅう)洛外図(ず)屏風(びょうぶ)」

伊達市に住むわたしたちが知っていそうで知らない歴史(れきし)や裏話(うらばなし)を生涯(しょうがい)学習(がくしゅう)課(か)文化財(ぶんかざい)係がシリーズで紹介(しょうかい)します。
 

洛中洛外図屏風亘理伊達本

洛中洛外図屏風の写真

市が所蔵する「洛中洛外図屏風亘理(わたり)伊達本」
 

16世紀初頭、にぎやかな京都(きょうと)の風景(ふうけい)を屏風に描いた「洛中洛外図屏風」が作られるようになりました。そこには応仁(おうにん)の乱(らん)から復興(ふっこう)し、近世都市に発展(はってん)する京都の姿(すがた)がつぶさに描かれて(えがかれて)います。

この屏風にはルールがあり、左右2つの屏風が1組になります。
描き方も二条城(にじょうじょう)から見て東側の風景(ふうけい)を右側の屏風に、西側の風景を左側の屏風に描くことになっています。
江戸(えど)時代中期に作られたといわれる、市所蔵の「洛中洛外図屏風」には、京都の西側が描かれています。本当だと東側を描いたもう1つの屏風があったはずですが、残念(ざんねん)ながらなくなっています。
 

洛中洛外図屏風に描かれている金閣寺のアップ画像
「金閣寺」が金ではなく黒で描かれています

さて、市所蔵の屏風をクローズアップしてみましょう。

この屏風には、京都の名所(めいしょ)や春夏秋冬(しゅんかしゅうとう)のいろいろな行事(ぎょうじ)が描かれていて、なかには今もまだ残って(のこって)いる建物もあります。そして、描かれている名所には「張り札(はりふだ)」で地名などをわかりやすくひらがなで書いてあります。
金閣寺(きんかくじ)、西本願寺(にしほんがんじ)、清水寺(きよみずでら)、豊臣(とよとみ)秀吉(ひでよし)が京都をぐるりと囲んで(かこんで)作らせた御土居(おどい)を見つけることができます。
この屏風では、金色のはずの金閣寺が黒で描かれていますが、理由(りゆう)はわかりません。

市では、平成31年4月にオープンした「だて歴史文化ミュージアム」で、この屏風を展示していますので、見逃した(みのがした)という方は、ぜひ見にきてください。

用語説明

屏風

木のわくに紙や絹(きぬ)を張った(はった)ものを2枚や4枚などつなぎあわせて折り(おり)たためるようにしているもの。
鎌倉(かまくら)・室町(むろまち)時代以降(いこう)、2枚を1対として組み合わせるようになり、多くはそれぞれに関連(かんれん)した絵や書が書かれています。
使い方は、室内に立てて風をさえぎったり、仕切り(しきり)や目かくしなどです。

鎌倉・室町時代

鎌倉時代

1185年から1333年までの約150年間の鎌倉に幕府(ばくふ)がおかれた時代をいいます。
始まる年・終わる年には、この他にもいろんな説がありますのでくわしくは調べて(しらべて)みてください。

室町時代

1336年から1573年までの約240年間をいいます。
足利 尊氏(あしかが たかうじ)が幕府を開き、織田 信長(おだ のぶなが)が将軍(しょうぐん)足利 義昭(あしかが よしあき)を追放(ついほう)したときまでをいいます。

応仁の乱

1467年から京都(きょうと)で始まり、その後11年間続いた(つづいた)争い(あらそい)。

復興

一度衰えた(おとろえた)ものが、また盛ん(さかん)にもどることや盛んにすること。

つぶさに

細か(こまか)で詳しい(くわしい)こと。

二条城

京都市中京区(なかぎょうく)にある城(しろ)。
1603年に京都の警備(けいび)と地方に住んでいる武士などが京都にくるときの宿(やど)として、徳川家康(とくがわ いえやす)が建てました。
2回火事にあっていて、このときに天守(てんしゅ)と本丸(ほんまる)は焼けてなくなっています。
1867年に徳川15代将軍徳川 慶喜(とくがわ よしのぶ)が大政奉還(たいせいほうかん)を行っている場所でもあります。
1994年(平成6年)「世界(せかい)遺産(いさん)(文化遺産)」として登録されています。

天守

城の本丸に建てられた一番高い物見櫓(ものみやぐら)。
天守閣(かく)ともいいます。

本丸

日本の城の中心になる一区画(くかく)で、城主(じょうしゅ)が住んでいる場所。
ほとんどが本丸の真ん中に天守があります。
戦いになると、最後の砦(とりで)になるので、一番高い場所や一番奥まった(おくまった)ところに作られています。

大政奉還

1867年11月9日に、徳川15代将軍慶喜が政権(せいけん)を朝廷(ちょうてい)に返すことを申し出(もうしで)て、朝廷がそれを許可(きょか)したこと。

所蔵

自分のものにしてしまっておくこと。

金閣寺

京都市北区にある鹿苑寺(ろくおんじ)というお寺の通称(つうしょう)です。
足利 義満の別荘(べっそう)北山殿(きたやまどの)を義満の死後、遺言(ゆいごん)で禅寺(ぜんでら)にしました。
内外に金箔(きんぱく)が貼って(はって)あるので「金閣」とよばれました。
応仁の乱で金閣以外の建物は焼けてなくなってしまいました。また、昭和(しょうわ)25年には金閣が放火されて焼けてなくなってしまいましたが、5年後に金閣だけがもう一度建てられました。
平成6年「古都京都の文化財」の一つとして「世界(せかい)遺産(いさん)(文化遺産)」に登録(とうろく)されています。

通称

正式な名前ではなく、世間(せけん)一般(いっぱん)でよばれている名前。

西本願寺

京都市下京区(しもぎょうく)堀川(ほりかわ)通にある浄土(じょうど)真宗(しんしゅう)本願寺(ほんがんじ)派の本山。

清水寺

京都市東山区清水にあります。
778年に延鎮(えんちん)上人(しょうにん)が創建(そうけん。ひらくこと)したといわれ、その後、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が伽藍(がらん)などを建てました。
現在の伽藍は、徳川三代将軍家光(いえみつ)が再建(さいけん)しました。
本堂の前にある板敷(いたじき)の部分は「清水の舞台(ぶたい)」として有名(ゆうめい)です。
平成6年「古都京都の文化財」の一つとして「世界(せかい)遺産(いさん)(文化遺産)」に登録(とうろく)されています。

伽藍

僧が住んで修行(しゅぎょう)をする場所。また、寺などの建物のこと。

豊臣秀吉

安土(あづち)桃山(ももやま)時代の武将(ぶしょう)。最初(さいしょ)は木下(きのした)藤吉郎(とうきちろう)と名乗っていました。
織田信長に仕え(つかえ)、戦(いくさ)で手柄(てがら)をたてて、その後羽柴(はしば)秀吉と名のり、信長の死後に天下(てんか)を統一(とういつ)しました。
豊臣という姓(せい)は、1586年に太政(だじょう)大臣(だいじん)になったときに朝廷からもらいました。
「太閤(たいこう)検地(けんち)・刀狩り(かたながり)」などを行い、朝鮮にも出兵しましたが途中で病気(びょうき)で亡くなり(なくなり)ました。

安土桃山時代

織田信長と豊臣秀吉が政治を行っていた1568年頃から1598年頃までの約30年間。
始まる年・終わる年には、この他にもいろんな説がありますのでくわしくは調べてみてください。
織田信長が住んでいた「安土城」と豊臣秀吉が住んでいた「伏見城(別称:桃山城)」にちなんで名づけられました。

御土居

京都市北区・中京区・上京区にある堤跡(つつみあと。土手のこと)。
1591年、豊臣秀吉が長い戦で荒れはてた京都の町の改造(かいぞう)の一環(いっかん)として、東は鴨川(かもがわ)、北は鷹ヶ峯(たかがみね)、西は紙屋川(かみやがわ)、南は九条付近(ふきん)にそって京都市をぐるりと囲む(かこむ)ように築いた(きづいた)もので、敵の来襲(らいしゅう)に備える(そなえる)ための防御(ぼうぎょ)用のとりでとしてと、鴨川の氾濫(はんらん)から町を守る堤防(ていぼう)の役割(やくわり)をはたしました。
南北約8.5キロメートル、東西約3.5キロメートルの範囲で総延長は22.5キロメートルもあります。江戸時代になると、外敵の脅威がなくなり、だんだんと必要(ひつよう)がなくなり、堤防の役割をはたしていたものなどを除いて(のぞいて)次々(つぎつぎ)壊され(こわされ)ました。
京都市内に残る御土居のうち9ヵ所(紫竹、盧山寺(ろさんじ)、西ノ京、平野、紫野、鷹ヶ峯2ヵ所、大宮、北野天満宮境内)が国の史跡(しせき)に指定(してい)されています。㐱

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