ふるさと発見 その5「伊達の火防(かぼう)」
伊達の火防
伊達市の消防組織(そしき)の始まりは、消防組として発足(ほっそく)した明治(めいじ)20年までさかのぼります。
当時、旅館業(りょかんぎょう)を営んで(いとなんで)いた皆川庄吉が初代(しょだい)の組頭(くみがしら)になり、組員30人を率いて(ひきいて)いました。この当時はまだ私設(しせつ)消防組で、装備(そうび)は竜吐(りゅうと)ポンプ1台のみという体制(たいせい)でした。
明治28年に公設(こうせつ)消防組の設立が義務(ぎむ)づけられてから、組員の増強(ぞうきょう)や装備の充実(じゅうじつ)が図られて(はかられて)いきます。
当時は火災(かさい)が多く、明治40年には村役場(むらやくば)や郵便局(ゆうびんきょく)など149戸(こ)が消失(しょうしつ)、昭和(しょうわ)2年には錦町(にしきちょう)から山下町(やましたちょう)にかけて115戸を全焼(ぜんしょう)、そして昭和7年にも錦町界隈(かいわい)32戸が全焼するなど大火が続き(つづき)ました。
度重なる(たびかさなる)大火に対応(たいおう)するため近代的(きんだいてき)装備の必要性(ひつようせい)が高まり、昭和8年にはポンプ自動車(じどうしゃ)「ダッチ号」と「ハドソン号」が増備(ぞうび)され、活躍(かつやく)しました。
昭和20年代の消防(しょうぼう)本部(ほんぶ)当時、旅館業(りょかんぎょう)を営んで(いとなんで)いた皆川庄吉が初代(しょだい)の組頭(くみがしら)になり、組員30人を率いて(ひきいて)いました。この当時はまだ私設(しせつ)消防組で、装備(そうび)は竜吐(りゅうと)ポンプ1台のみという体制(たいせい)でした。
明治28年に公設(こうせつ)消防組の設立が義務(ぎむ)づけられてから、組員の増強(ぞうきょう)や装備の充実(じゅうじつ)が図られて(はかられて)いきます。
当時は火災(かさい)が多く、明治40年には村役場(むらやくば)や郵便局(ゆうびんきょく)など149戸(こ)が消失(しょうしつ)、昭和(しょうわ)2年には錦町(にしきちょう)から山下町(やましたちょう)にかけて115戸を全焼(ぜんしょう)、そして昭和7年にも錦町界隈(かいわい)32戸が全焼するなど大火が続き(つづき)ました。
度重なる(たびかさなる)大火に対応(たいおう)するため近代的(きんだいてき)装備の必要性(ひつようせい)が高まり、昭和8年にはポンプ自動車(じどうしゃ)「ダッチ号」と「ハドソン号」が増備(ぞうび)され、活躍(かつやく)しました。
写真(しゃしん)の建物(たてもの)は当時の消防本部(ほんぶ)です。
中央(ちゅうおう)奥(おく)に、遠く(とおく)を見渡せる(みわたせる)火の見(ひのみ)櫓(やぐら)が立っているのがわかります。
当時は高層(こうそう)建築物(けんちくぶつ)がなかったので、この程度(ていど)の高さでも充分(じゅうぶん)に町内(ちょうない)を見渡す(みわたす)ことができました。
この場所(ばしょ)は旧(きゅう)ひまわり保育所(ほいくしょ)(旭町)の道路(どうろ)を挟んだ(はさんだ)海側(うみがわ)です。
昭和36年には館山(たてやま)公園(こうえん)の麓(ふもと)に移設(いせつ)されましたが、現在はこの建物(たてもの)も役目(やくめ)を終えて(おえて)います。
手動(しゅどう)の「腕用(うでよう)ポンプ」
市には手動の「腕用ポンプ」が文化財(ぶんかざい)として保存(ほぞん)されています。
このポンプはすでに役目を終え放水(ほうすい)はできませんが、当時の火防(かぼう)の歴史を後世(こうせい)に伝えています。火災からまちを守った(まもった)消防組の人たちがいたからこそ、今日のまちの姿(すがた)があることを忘れる(わすれる)ことはできません。
このポンプはすでに役目を終え放水(ほうすい)はできませんが、当時の火防(かぼう)の歴史を後世(こうせい)に伝えています。火災からまちを守った(まもった)消防組の人たちがいたからこそ、今日のまちの姿(すがた)があることを忘れる(わすれる)ことはできません。
企画財政部企画課広報広聴係
電話 0142-82-3114